【コンシェルジュ・バミ】ブラジル漫画界の巨匠

3月も終わりですね。

上野公園の桜は7分咲きのようで、今週末、見ごろになるかどうか・・・というところでしょうか。

寒い中での夜桜・・・寒すぎると・・・かもしれないですね。

世間的には明日から新年度・・・ということで

コンシェルジュ・バミもファンである

手塚治虫先生に関する情報をご紹介させて頂きます☆彡

asahi.com さんの
手塚漫画と「ブラジルの巨匠」共作が実現へ 生前に約束 の記事からです。

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「漫画の神様」手塚治虫氏が親交の深かったブラジルの漫画の巨匠、マウリシオ・デソウザ氏(74)と約束しながら、手塚氏の突然の死で果たせなかった共作プロジェクトが実現する。平和を求める冒険物語を映画にする構想は幻に終わったが、手塚氏のキャラクターも使った漫画をデソウザ氏が描くという形で、2人の夢が、手塚氏の死後20年以上たってかなうことになった。

 デソウザ氏は「ブラジルのディズニー」とも呼ばれ、2009年で漫画歴50周年を迎えた。ブラジルで出版されるコミック雑誌の大半をデソウザ氏の作品が占める。
 サンパウロ州で日系人に囲まれて育ち、妻も日系人ということもあって、長年、手塚氏のファンだった。1984年に手塚氏がブラジルに講演のため訪れた際に実際に知り合いになり、互いの家やスタジオを訪ね、作品について意見を交わす関係になった。
 デソウザ氏は振り返る。東京を訪れたある時のことだった。「『世界平和について描きたい』と話した手塚に『その考えが気に入った。私は自分の漫画で描こう』と言ったら、『一緒にやろう』と手塚が言い出したんだ」

 手塚氏の「鉄腕アトム」や「リボンの騎士」と、デソウザ氏の作品「モニカと仲間たち」などのキャラクターが、一緒に平和を求めていく冒険映画――。これが当初のアイデアだった。ブラジルでも手塚氏のアニメ作品はテレビで放映され、人気があった。デソウザ氏は訪日のたびに手塚氏と会い、構想を練った。
 ところが89年にデソウザ氏が訪日した際、いつも空港で出迎えたり一緒に食事をしたりしてくれていた手塚氏と、なかなか連絡が取れなかった。
やっと秘書から電話があり、東京・赤坂のホテルで待っていると、手塚氏が現れた。やせ細っていた。病院を抜け出してきたのだった。2人の映画の話になると、みるみる生気を取り戻し、数時間話し続けた。胃がんという自分の病については一切話さなかった。

 それが最後だった。数週間後、ブラジルに帰国したデソウザ氏は、手塚氏が亡くなったと知らされた。
 だが、デソウザ氏は夢をあきらめきれなかった。2人による映画ができなくとも、1人で引き継いで、漫画で実現できないかと思い続けていた。
 昨年初め、イタリアで開かれたブックフェアで、手塚プロダクションの編集担当者に会うことができた。「リボンの騎士などのキャラクターを、自分の漫画に使わせてほしい」と頼み込んだ。手塚プロダクションの担当者は「どうぞ、と許可を出しました。2人は親交がありましたから」と言う。海外の漫画家に手塚氏のキャラクター使用を認めたのは初めてだという。

 「やっと約束を果たせる」とデソウザ氏。今年6月をめどに、手塚氏の「リボンの騎士」や自分の作品のキャラクターを使い、世界にあふれる暴力やアマゾンの森林伐採のような環境破壊といった問題に立ち向かっていく人々のストーリーを作りたいという。漫画はポルトガル語で出版するが、デソウザ氏は日本語版の出版も考えていきたいという。

さて、マウリシオ・デソウザ氏ですが、実は日本でも活動されています。

2年前の2008年に日本人ブラジル移住100周年を迎えた際に、マスコットが作られたのですが

そのキャラクターデザインを担当されたのが、マウリシオ・デソウザ氏です。

「チカラくんとケイカちゃん」

外務省のサイトに凛と掲載されています

○ブラジル日本移民百周年記念協会からの依頼に応え、まずチカラが生まれました。
チカラという名前は「ちから」、日本人の辛抱強さを表しています。
チカラは日系人達やブラジル人達の中で大変評判が良かったので、マウリシオ・デ・ソウザは内緒で
チカラのガールフレンドを作ることにしました。それが優しくて魅力的なケイカです。勇気があり、純粋で、誠実で、正直なことが取柄です。
こうして、マウリシオさんと、日系人であるアリッセ夫人が協力して作ったかわいい2人が、日本人ブラジル移住100周年の公式マスコットとなりました。

春の陽気に乗って、お仕事に弾みをつけていきたいと思います♪

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